どうやって息をするのが正解だったか教えて

誰に見てもらえるわけでも無いと思うけどただの独り言と自己満足で自分が今のようになった経緯を書きたいと思います。

まず私が幼い頃に両親の喧嘩が耐えない時期があり、父親が仕事を辞め、家に住むことが出来なくなったり、ということが起こりました。母はその頃から毎日のように仕事へと出かけていました。とても大変だったと思います。私は何より両親の喧嘩が恐ろしくて顔を合わせる度に喧嘩していた2人に怯えていました。

 

初めて顔の悪口を言われたのは小学一年生の時。笑える話ですが顔がモンスターみたい。と言われた時でした。初めて虐められたのもその頃。麦粒腫で病院に行って、休んだ次の日に登校したら机に今思うと有り得ないほどの落書きがされていた時です。えんぴつだったし、誰にも言えなかったので泣きそうになりながら消しゴムで消したのを覚えています。それを言えたのはその半年後くらいでしたでしょうか。母が心配して連絡帳に担任へとその出来事を書いてくれて、担任とそれをやった張本人と私が呼び出され、問い詰められました。でも幼少期から引っ込み思案で大人しくて暗い人間だった私は何も言えず、今思えばとても悔しい思いをしました。初めて死にたいと思ったのは小学四年生の時でした。同じく顔に関する悪口を言われた時です。輪郭がおかしい、声のトーンが変。とわざと聞こるように言われたことをはっきりと覚えています。決まって私をいじめるのは男の子でした。その理由はわかりませんでした。わざとぶつかってくるのも全部全部、男の子でした。だから私は男の子が苦手です。男性恐怖症が酷かった時期もありました。

人生で一度だけ、警察にお世話になったことがあります。友達と遊んだ時もう1人の友達が待ち合わせ時間になっても来なくて、メールしても反応がなくて友達と一緒に家に行っても何一つ反応がなく、心配して私達は警察に行ってしまったのです。今思うと大袈裟で、とても迷惑なことをしたと思いますが怒られた事に関しては正直納得いっていないところもあるのです。こういう所が、私のダメなところなのだと思います。

 

そんな事が起こったりして、中学生になった私でしたが大好きな吹奏楽部という場所で大好きな幼馴染が私のことを嫌うようになったのは中学二年生の7月の話でした。具体的に何をされたのかというと、近づいたら逃げられる 近づいたら部活のメンバーを引連れて逃げられる 基本逃げられるっていう事だったと思います

私が部活のメンバー達の近くに行った時全員が私を腫れ物のような目で見て逃げていった日は泣きました。とても辛かった。でもそれを言えるようになったのもまた半年後くらいの話でした。私は人に酷いことをされてもなかなかそれを打ち明けたり、相談したりすることが出来ないのです。

塾だけは嫌いではなかったのです。ですが、虐められるようになってから始めた市販薬のオーバードーズによって字を書く時に手が震えるようになりそれが恥ずかしかったり、精神が不安定だったこともあり塾に通うことが不可能になりました。勿論ですが学校にも通えていませんでした。その頃は毎日のようにODをしていて、主にエスエスブロンやパブロンゴールド、ルルを飲んで学校で過呼吸を起こしたこともあります。リストカットを始めたのもその頃でした。全部、誰にも言っていませんでした。

毎日のように泣いて、母と喧嘩をしていました。

そしてやっとの思いで通うようになった精神科で、社交不安障害と診断され、ロラゼパムという薬を処方されました。その薬がとてもよく効いてくれたのです。私の救世主と言ってもいいくらい、今でもお世話になっている薬です。それがないと外出が不可能です。しばらくした頃に母にリストカットやODのことを泣きながら打ち明けたことを覚えています。

もうその時には抑うつの症状が出始めていました。布団から出られず、目が腫れて開けられなくなるくらいに号泣する毎日で、母はそんな私を優しく抱きしめてくれました。横で一緒に寝てくれたこともあります。それが、とてもとても大事な思い出なのです。

私はその頃から入院を考えていました。もう救いようのない自分を救い出してくれるのは「入院」のような気がしてならなかったのです。そして何度目かのODが母にばれて怒られてしまった時に泣きながら入院させて欲しいと話しました。今の病院に出会ったのはその頃でした。今の主治医に出会ったのも、その頃でした。精神薬をODして主治医と看護師に向かって「入院させろ!」と泣きながら叫んだのを覚えています。今では笑い話ですが、笑い話にできないほど当時は苦しかったのです。

そして初めての入院生活が始まりました。そこで出会ったのが看護師のKさん。とても優しくて、私にとって第2の母のような方です。今でもたまに外来で遭遇しては話し込んでしまうくらい仲が良いです。笑

自信のない私を可愛い、可愛いと言って褒めてくれるあの人はとても優しくて憧れの看護師さんです。

主治医とは最初の頃あまり話すことが出来ず、面接の度に「辛いです」と言っていたことだけは覚えています。今ではなんでも話せるようになり、とても大好きで大切で、私の恩人です。主治医がい無かったらどうなっていたのだろうかと考えると怖いです。それくらい、人生を変えてくれた人なのです。

主治医との交換ノートを始めたのは、初めての入院の頃だったでしょうか。密かな楽しみで、今もまだ続いています。好きな曲をおすすめしあったり、辛いことを書いたり、治療の事を書いたり交換ノートによって色々なことが分かり合えるようになった部分はあると思います。主治医にとって私は患者のひとりなのですが、もちろん私にとってはとても大切な、父親のような存在です。週に2回、主治医に会うのがたった一つの楽しみだったりします。

心理士さんに出会った頃のことは何故かあまり覚えていないのです。気づいたら、居たというかそんな感じでした。心理士さんにも色々なことを相談できるようになって週に一度のカウンセリングをお願いしています。とても信頼しています。

1度目の入院は私にとってとても良い経験となり、思い出でした。最後は個室に移動したり退院したいと騒いだりと色々とありましたが。

 

退院してもODやリストカット、そして過食嘔吐はやめられず一時は心配されるほどに痩せてしまい食事を全くとらなかった時期もあります。ODや過食嘔吐のし過ぎで胃がおかしくなって何を食べても吐いてしまう時期もありました。

そこから何度か入院を繰り返しました。開放病棟へ入院している時は幻聴が特に酷くて発狂して泣いてしまって主治医が3時間くらいそばにいてくれたこともあります。とても辛かったです。看護師さんに向かってひどいことを叫んでしまって翌日謝るなんてこともありました。

初めて閉鎖病棟に入ったのはパブロンゴールドを200錠くらい飲んだ時です。その時は本当に死ぬのではないかと思いました。自業自得と言われれば間違いないです。

お小遣いは、全部薬にいっていました。エスエスブロンやパブロンゴールドを飲んでいる時だけは時間が早く過ぎてくれて辛いこともどうでも良くなってすごく幸せな気持ちになるのです。本当にやってはいけないことで、人を悲しませ、呆れさせてしまう行為だということが今はわかりますが、今でもたまにとてもODをしたい衝動に駆られて、主治医にそれを漏らして注意されることもあります。

また自分が手を出してしまうのではないかととても怖いです。

それから自殺未遂も何度か繰り返しました。それまでも自殺未遂までとはいかないけれど首を絞めたり飛び降りようとしたり、することはあったのです。最大の自殺未遂が精神薬をあるだけ飲んだ時です。両親に救急車を呼ばれ、初めて救急車に乗りました。救急病棟に入院して、点滴をして鼻チューブ、そこから閉鎖病棟へ。という流れで2度目の閉鎖。入院の手続きを済まされている時は、「入院はしたくない」と泣きながら叫びました。あの部屋で入院の手続きを親と医者でやっている空気がとても苦手です。

閉鎖病棟での生活はとても辛いです。勿論スマホや持ち物の制限が厳しく、外にも出れないので病室でただひたすらラジオを聴いたり音楽を聴いたり小説を読む日々です。自分はどこまでも自業自得で、馬鹿で最低な人間だと思いました。周りには呆れられていたと思います。ですがその頃はしっかりと反省して一ヶ月も経たないうちに退院をしました。1度目の閉鎖入院もそのくらいでの退院でした。何故か食事をしっかりと取ることが条件でした。過食嘔吐や拒食を繰り返していたからでしょうか。

それでも私の中の「死にたい」とか「楽になりたい」という気持ちは懲りず、またODをして主治医を怒らせ、周りを呆れさせて閉鎖病棟へ入院しました。それが最後の入院でした。

 

初めての整形は、高校一年生の11月頃でした。一重だった目を二重にしました。それまでは、自分の目が大嫌いでアイテープをして過ごしていました。

でも目を整形しただけで可愛くなるというわけでもないので、自信が無いまま再手術を行いました。

私は自分の顔が嫌いです。人に悪口を言われるほど、虐められるほど醜い顔だと思っています。それを否定してくれる人は何人もいるのに私は自分に自信が持てないのです。否定してくれる人はもちろんお世辞なのですが、申し訳ない気持ちになってしまいます。たった一言で、人をこんなにも辛い気持ちにさせてしまう悪口はとても汚くて、醜いものだと感じます。

将来はお金を貯めて整形をしたいと思います。特に輪郭と鼻。輪郭に関してはあの悪口を言われたことで自信がなくなってしまいました。人は一度指摘されてしまうと忘れることは出来ないのです。私はそう思います。

 

咄嗟にでた一言だとか、そういうのは酷いものだったら簡単に忘れることはできません。だから気をつけないとなと身に染みて感じるのです。

 

逆に好きだとか愛してるとか簡単に言ってはいけない言葉だってあるし、言葉って難しいなって思います。

何を書きたかったんだかよくわからなくなってしまいました。

顔と身体しか見てくれない男の子もいたりするし、優しくされたと思ったら嫌われて捨てられてしまうことだって何度もありました。

死にたいって今も思ってます。身体が強い金縛りに襲われることもあります。好きな人が振り向いてくれないこともあります。

でも私に関しては音楽だとか主治医だとか救ってくれるものだってあるのです。そういうものを、忘れたくないなと思います

人って失うことは必ずあるのだと思っています。それは優しいことでも辛いことでもどっちにしろ有り得ることで、誰もが辛くて、たまに孤独だと感じて生きているのでは無いのかなと思います。それは私の主観であり、実際は違うのかもしれないけど。

私は、私の好きな人や物に幸せになって欲しいです、

「今までの事全部消すから、幸せになって約束よ」っていう歌詞があります。わたしのだいすきな、わたしのことを救ってくれた大森靖子ちゃんが書いた歌詞の中にある一節です。

わたしはわたしがどんなにボロボロになったって醜くたって汚くたって、大切なものには幸せになって欲しいのです。私みたいな思いをしないように、どんなに酷いことでも全部消してあげるからあなたを孤独にはさせたくない。消えたいと思ったら少しでもいいから私との楽しかった思い出とか幸せだったこととか思い出してくれないかなって、自分勝手で暴論なことを思ってしまうような人間が私です。でもそれでもいいと思っています。私のこと好きでいて欲しい。汚いし、醜いけど見てて欲しい。

精一杯自分の可愛いを作っていきたい。可愛く生きたいってよくツイートするのですが、本当にそうなのです。

私を好きな人にはありがとうって思うし、嫌いな人だって沢山いるけれどそれなら関わらなくていいと思うし、私は私のままを生きたいんです。

本当は、そう思ってるのに上手くいかない

それって当たり前の事だと思う。けれどやっぱり上手く生きたくて、孤独を感じてて、死にたいって毎日思ってる。そんな私でも、可愛いって、頑張ってるよって言ってくれる人がいるから今日も私は生きてるんだと思います。

ここまで読んでくれる人なんているのかなって思うけど、ありがとうございました。